何故仕事を探すのか ~ 私の場合
今回は私が大学3年の時に何を考えて仕事を決めたかを記事にしたいと思います。
皆さんの参考になるか分かりませんが、仕事を決める際の参考にしていただければと思います。
夢を諦め、就活戦線は大氷河期
以前の記事で私は法曹関係の仕事を諦めて就活を始めたという話をしました。
法曹関係の職に就くには法科大学院に通うことが大学3年時に完全に義務化されたので、大学院か就活かの二択を迫られました。
司法試験の制度が私の大学受験から在学中にかけて毎年目まぐるしく変わっていたので、今思うとリサーチが不足だった、という反省もあります。
長年の夢を諦めるだけでなく、そのために自分で学費を稼いで法学部に通っていたので、その決断には多大な時間を要し、同級生より遅れたスタートになってしまいました。
しかも諦めるにしても時代はサブプライムローンが破綻し、リーマンショック到来という最悪の時代が到来していました。
冗談抜きで世界史の教科書で第二次世界大戦の一因とも言われる1929年の世界恐慌以来、『100年に一度の不況』なんて言われていた頃です。
決断の決め手になったのは、自分で学費を稼いでいた4年間で常にお金の苦労をしていたということでした。
貯金もない身分で大学院に行って勉強に追われながらお金を常に心配する生活から解放されたいという気持ちが強くなり、就活に徐々に気持ちが傾いていきました。
とは言ってもやりたいことは長い間それしか考えてなかったので、今更何をしたらいいのだろう、ということを一から考えなくてはなりませんでした。
パティシエの嘆き
話は飛びますが、私は学費を自己負担し、一人暮らしもしていたので掛け持ちでバイトをしていました。
中でもよくシフトに入っていたのが、賄い付きのイタリアンレストランのバイトでした。
そのレストランの社員さんに、元パティシエという経歴の方がいました。
お子さんが生まれるので福利厚生のしっかりした職場に一旦は籍を置き、落ち着いたらパティシエに復帰しようと考えている方で、はじめから長いことこのレストランにいる気はない方でした。
私はその方とは仲良くさせていただいていました。
その方は私より後に店に入りましたが、その方はイタリアンでは活躍できませんでした。
もうレシピがマニュアルで決まっているレストランではアレンジを加える余地がないからです。
勿論店にデザートはありましたが、学生の私が作るティラミスも、本職のパティシエが作るティラミスも同じクオリティになってしまうわけです。
その人が店のあり合わせの食材でミルフィーユを作った時には、店のデザートが酷くチープに見えたものでした。
その方は今ある店のデザートを同コストでもっと質を上げることができるのにと嘆いていました。
その姿に私は就活の方向性のヒントを得たのです。
仕事をやるのではなく、仕事を作る
色々なバイトをしましたが、当時の私がした仕事は大抵がバイトとしてマニュアルがあり、同じ質のものを作り続ける、という類のものでした。
ですがパティシエの方が今までいた世界というのは私の知る仕事とは異質のものだったのだな、と改めて考えさせられました。
「自分で商品を考え、作り、店のコンペに出して認められ、売り物になり、買ってもらえた時はものすごい充実感を感じた」という話をその方は嬉しそうに話していました。
仕事を手順通りにやるだけでなく、その手順を自分で作りにいくという仕事があるのだな、とその時感じたわけです。
そしてその仕事にはやりがいがある、認められた時に今の仕事にはない充実感があるのだろうな、と、私はおぼろげに思いました。
その方との語らいを経て、私は大学でマニュアル通りにする仕事はやり尽くしたので、今度は私も『自分で仕事の形を作っていく』仕事をしたいと考えるようになりました。
中でもケーキのように、何か形に残るものを作りたい、と考え、それを就活の軸にしました。
とは言え当時の私にケーキを作る料理の腕も知識もなく、料理学校にも通えません。ものづくりにしても私は美術の成績が万年『2』だったので、本当に手先が不器用でした。
ですが昔から文章を書いたりするのが好きだったので、記事や広告で勝負がしたいと考え、その業界を目指したわけです。
まあ結果を言うと、その業界で内定は取れましたが、保証人がおらず内定は辞退せざるを得ませんでしたが…
ヒントはどこかに転がっている
生きる上の答えは誰も教えてはくれませんが、ヒントは意外とどこかに転がっているものです。
ですがそれは真剣に考え、もがいていないと見落としがちです。
まずはもがき、足掻いてみなければ何も見えてきません。まずは歩き続けることからです。
あなたにとって拙著が生きる上のヒントとなることがあれば幸いです。
皆さん、就活頑張ってください。
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